|
YAMBOW JAZZ徒然 ネット版 <5>「心象風景の中に」
|
2002.07.07 平井 康嗣 |
宮沢賢治がよく使う淡々とした客観的なイメージのする言葉「心象風景」。
わたし的には気に入っている。客観性を持った理系的な発想の言葉でもある。
しかし客観性というのも、個人個人の心の鏡に映った主観性の連鎖なのだろう。
他人の心の事象は最終的には知る由もないが、個人個人の心の形が何処かで重なり合いながら、同じ風景を造っている。どんな風景なのか。
それは同じ心象風景の中に棲んでいる者同士にしか判らない。同じ時間の共有と共同幻想を体験出来た者同士。
音楽の共同幻想という現象は、同じ心象風景の確認作業だろう。演奏する側と聴く側、発信する側と受信する側。
音楽でなくとも小説、絵画、演劇、映画、と、心の素子が発信した波動は同じような情景を造りながら連鎖し増殖する。その波動は時間と空間を混在させながら、個人個人の記憶の中に「心象風景」を焼き付けてゆく。
わたしの「心象風景」の中には、ひとりの女性がいる。
顔は、漠然としていつも憶えていない。幼少期、幼年期、思春期、青年期、成年期、と、その女性はわたしが年をとると共に若くなっているような気がする。
私の「心象風景」の中だけに存在する女性なのでそんなことがあっても不思議ではない。
だからもう10年も経つと彼女は少女のようになっているのだろう。そして私が死ぬときは、赤子になっているのかもしれない。
わたしは遠い記憶の向こうに彼女の未来を知っている。逆に彼女は、昔から私の未来を知っていたのだろう。
宇宙の物質は素粒子という小さな粒子でできている。
それぞれの素粒子には同じ性質を持った反素粒子が存在する。反素粒子ばかりで出来た物質は、反物質ということになる。物質と反物質が反応すると二つの物質は光子となって光を放出して消滅してしまう。同じ素粒子同士の反応でも反素粒子は時間的に逆の反応をしてしまう。つまり反物質は時間を逆に進んでいるのだ。
もし、心にもそんなしくみがあるのなら、わたしの「心象風景」の中にいる女性は反物質でできているのだろう。
そして「心象風景」の中で彼女と出会えたなら、わたしの心の世界は消滅してしまうことになる。
|
2002.07.07 Yambow 平井
|
|