OKAYAMA Swing Street
語れば熱き音楽人
YAMBOW JAZZ徒然 ネット版 <3>
意思のかたち (Shape of my heart)」
2001.4.25 平井康嗣
 昔よく「体は心を表す。」などとオヤジに言われていた。「物事は見かけじゃないんだ。」などと反発してか、わざと汚いジーパンをはいていた。私はいまでも綺麗な格好をしているとはいわないが、いまだに形而下的な事はさほど興味がない。然し「世の中は見た目だ。」などと妙にこの頃納得し始めた。そうかといって矢張りしゃれて見る気は今更無い。自分を他人に誇示するためには、「見た目」を変えるのが一番手っ取り早い。逆に人を判断する最初の手がかりも矢張り「見た目」なのだ。それでも話をしたり、行動を見たりして、徐々にその人を判断するイメージが作られて行く。顔の表情であったり、声の質であったり、性格であったりしてトータルなイメージが作られて行く。そしてそのイメージと名前が一緒になってその人を認識するようになるのだろう。別に人でなくとも世の中の「モノ」はすべてそのイメージと名称で認識している。これを「イデア」と呼ぶのかもしれないが、話が少しそれてしまった。

 先日、中学校の頃の同窓会なるものがあった。30年振りに会うものだから最初は誰がだれだか良くわからない。然し「俺は××じゃ。」などと声を聞くと昔の顔の面影を思い出す。多分、「心のかたち」みたいなものがあって、それを名前と一緒に記憶しているのだ。よく音楽も、そのミュージシャンの手癖みたいなフレーズや歌いまわしがあって、それを聞くと曲名とか分からなくとも、納得するようなところがある。音楽に限らず、絵や小説、演劇等々すべてのアート、自己表現活動は最終的にはそのアーティストの「心のかたち」の変換作業のように思える。楽器を弾きこなすテクニックやものを作って行く技術は当然必要だが、表現しようとする意思、創ろうとする意思の方がもっと大切な気がする。その意思がどのような衝動から出てくるのかは私には解らないが、同じ曲を演奏してもミュージシャンによって違ってくるし、同じ景色やモノを描いても、画家によって違った絵になる。その違いは「心のかたち」の違いなのだろう。人を感動させることの出来る偉大な表現者は凡人とは違った「心のかたち」をもっているのだろう。

 逆な見方をすると、アートとして表現しなくても偉大なアーティストと同じ様な「心のかたち」を持っている人もいるかもしれない。起業家であったり、発明家であったり、職人であったり、医者であったり、教師であったり、アート以外の生き方でも人を感銘させるような「心のかたち」を持てるかもしれない。某ビストロの酔っぱらいのオヤジは、いつも自然体である。自分の気持ちに素直に生きているのか、絵を書いたり写真を撮ったり料理をしたり、楽器を弾く真似をしたりしている。そうかといってプロに成ろうとか、人に見てもらおうとかいったたぐいの気負いなどこれっぽっちもない。なかなかいい味が出ている。「ホントのアートとはこんなものかもしれない。」と、ふと思うことがある。

 そのビストロのオヤジは自然のなかで遊ぶのが好きだ。本来、誰しもそうなのかもしれないが、そんな気持ちを忘れてしまっているようだ。春の陽気な日、旭川の河原や、操山の上でボケっとしているのは気分がいい。それでもよく考えてみると「自然の中」というのは大概、森や山、木や植物が沢山おおい繁っているところを指す。砂漠や、クレーターに覆われた月面を自然の中とは誰も思わない。然し何の生命や意思のない純粋な惑星の自然の地形というのは、クレーターだらけの岩と砂の地形なのだ。地面から自然の法則に反してはえてきて、地球上のいたる所に繁殖している植物の意思こそ、実は我々人間が自然と称して崇めているモノなのかもしれない。太古の海の中より酸素を吐き出しながら、酸素がオゾン層を造るまで大気中に酸素をたくわえ、陸地へと繁殖していった植物の進化の意思は、魚や動物達をも海から地上へと進化させた。植物にはぐくまれながら動物は人類へと進化していったのだ。人間の原始宗教で祀った神というのは実は植物の意思だったのだろうか。

 そうすると、ビッグバンで宇宙を創り、銀河系を創り、太陽系を創って、地球という星に生命を創った宇宙の法則、相対性理論こそ神の意志の片鱗なのだろう。人類の意思は自然の法則や植物の意思の小さなゆらぎのなかの微々たるものなのかもしれない。然し、その微々たる人類の意思の中のたったの一人の意思で、アインシュタインという一人の「心のかたち」が宇宙の法則を相対性理論という形で表現したのだ。

 春のうららかな中で、とりとめのないことを思い描いてしまいました。 YAMBOW 平井 2001.4.25
YAMBOW 平井 2001.4.25


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