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YAMBOW JAZZ徒然 ネット版 <2> 「浮き世の音楽」 |
2001.3.2 平井康嗣
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実家のおふくろは物持ちがよい。というのか、なかなかモノが捨てられない。 逆に近所で要らなくなったモノを貰ってきたりもする。
学生の頃、よくそんなモノを家の中に運ばされた。すると「ゴミばかり貰ってきて!」と、 きまってオヤジが怒り散らす。よくしたもので、オヤジは消費が上手い。
考えてみると、生活の中で要らなくなったモノが「ゴミ」なら、 モノを「要らない」と判断して「ゴミ」として捨てるのは個人個人の生活の価値基準になる。 中には生き物さえも「ゴミ」として捨てる人間もいるわけだから。 「もったいない」とか「修理して使おう」とか「大事にしよう」などという気持ちが 稀薄になってきているのだろう。便利で楽な生活を追求することでモノを造り、 造っただけのモノがいつかは「ゴミ」として増えているのだ。
音楽も何年も前から消費されてゆくモノに成り下がっているような気がする。
ミリオンセラーのCDは最近の方が多く生まれているが、一年も経てば忘れられている。 一体この現象は何なのだろうか?
実際に時代を越えて残っている名曲は80年代70年代以前の曲が多い。 CDの時代になってからの年間の音楽のリリース量たるやLPの時代の4〜5倍、 多分インディーズも入れると10倍以上の作品がリリースされているだろう。 昔は入手困難だったLPもCDの時代になるといともたやすく安価に再発される。 羨ましい状況ではあるが、逆に簡単に手にはいると「こだわり」とか「愛着」も少なくなってくる。 私達が音楽に持っていた「ガンコなこだわり」みたいなものが、 果たして次の世代まで続くのだろうか、などと寂しく思えることがある。
この現象は音楽に限った事ではなく映画やアート、読み物にしても 同じ様な状況があるのではないだろうか。そしてTVやラジオ、新聞のニュース、 つまり巷(ちまた)の話題にしても、今日の大事件や三面記事が1ヶ月後には みんなから忘れられている。まして1年前とか2年前の事は、遠い昔の事のように思える。 情報過多による社会の細分化と価値観の多元化で不確定性の時代(もう死語に近いが)は 益々拍車がかかって行くばかりだ。
高度経済成長の「消費は美徳」などという判ったような判らないような、 どうでも良い企業本位のキャンペーンに踊らされたツケが今「ゴミ問題」や 「ダイオキシン」「環境破壊」としてまわりまわって私達の生活をおびやかしている。 では、消費されただけの音楽は一体何処に捨てられているのだろうか?
現代人の移ろい行く心は、益々空虚なゴミ捨て場と化しているのかもしれない。
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YAMBOW 平井 2001.3.2
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