OKAYAMA Swing Street
語れば熱き音楽人
YAMBOW JAZZ徒然 ネット版 <1>
「バーチャル無法地帯」
2001.1.9 平井康嗣
 レコード業界では、著作権を無視した違法レコードやCD、ビデオを「ブート」とか 「海賊盤」と呼ぶ。マニアの間では当然の様に売買されている。
逆にミュージシャンでさえ自己の演奏活動の記録を全部持っているわけではないので、自分達の「海賊盤」を購入したりもする。違法行為ではあるが暗黙の公認であった。

ところが数年前、マライヤ・キャリーの違法コピー盤が中国のほうで出回ったものだから、とたんに日本でもブート業者の摘発が厳しくなった。
ブートの市場ではマライア・キャリーなど相手にされていない。妙な話ではある。誰かが、と言うよりもどこかの企業が利権を主張し権力を誇示しただけのことだ。
ブート業者は地下にもぐっただけで、需要があるかぎり彼等は暗躍する。逆にそんなマニアックな世界があるからこそ音楽業界もよ り奥深いものとなってゆくのだ。

音楽に限らずこの手のコピー文化は東洋人の方が無節操なようだ。
もともと「著作権」とか「知的所有権」とかいった西洋の契約的な権利には無頓着なのだ
。 多分「免許皆伝」とかいった精神的肉体的に苦労して修得する「術」に重きを置いているから簡単にコピー出来るものに関しては価値観が違うのかもしれない。

 しかし、「著作権」とか「知的所有権」とかいった概念は21世紀には淘汰され変わって行くだろう。
元々、この類の権利は形とか量がはっきりとあるわけではないので 、主張したもの勝ちみたいな部分がたぶんにある。
「この考え方は私の考え方だ。」などと主張するのだから捉え方によっては、えらく了見の狭い考え方でもある。然し今までの世の中は、欲張って権利を主張して独り占めする人間に有利に出来ている。
むしろ契約型の資本主義社会はこの権利を主張する一部の人間達を守っていたのかもしれない。
それでも、音楽の海賊盤ではないが、インターネットの世界ではこんな権利を主張しても意味がなくなりつつある。違法コピーだと言えば違法なのだが、いざ取り締まろうにもなかなか取り締まりようがない。いくらでも形をかえて出現する。正にバーチャル無法地帯は拡大する一方である。
そして、最新のテクノロジーがこの違法コピーを助長するかのように発達しているのだ。

コンピューターのOSで「リナックス」が大変な勢いで増殖しているらしい。テクノロジーをネット上で情報公開する事によって新しいOSのアイデアがどんどんと加わり進化している。ビル・ゲイツのマイクロソフト帝国もいつまで持つかわからないだろう。
 もともとインターネットは学術的情報公開の為に進化した側面をもっている。アインシュタインが「相対性理論」を特許にしていたらとんでもないことになる。逆にアインシュタインはノーベル賞の賞金を離婚慰謝料に使って再婚したくらいの人だから、お金への執着はさほどないのだろう。だから天才なのだ。

 また、現代アートでは、モノの捉え方考え方を表現することで自己表現する。クリスチャン・マクレーというレコードとターンテーブルを使うミュージシャンがいる。 DJではない。レコード盤を裸のまま床に敷き詰めたアートをする。見に来た人はレコード盤の上を歩く。レコードコレクターからしてみるとおぞましい限りのアートではある。
そして彼はその無造作につけられたレコード盤のキズをターンテーブルで回し スクラッチやノイズを入れて音にする。 基本的にはミュージシャンというよりアーティストなのだが、誰も考えつかない事を最初にしたのだ。
ところがこの種のアートは彼と同じ事をしてもさほど意味が無い。そして発想の面白さによる知的興奮はあるが、果たして何処まで感動するかということとは、また別問題でもある。

 「人類共有の知的財産」としてのセオリーやテクノロジー、著作物といった考え方の方が本来は正しいあり方なのかもしれない。しかしそんなユートピアみたいな話はすぐすぐにはない。現実は「著作権」とか「知的所有権」で派生するお金で動いている。

 それでも、本当にモノを創って人を感動させ、喜ばせる人間はこんな権利とは別の所で生きているように思える。お金が儲かり出して駄目になるミュージシャンがよくいるように。  
YAMBOW 平井 2001.1.9


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